ようこそ(*^▽^*)
社会人6年目&大学院1年生の息子がいるアラフィフ〜アラカンの狭間にいる母が日常を自由気ままに描いているブログです。




初めての方、こちらに兄弟のプロフィールがありますので、よかったら覗いてみてください。
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はじめに

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▲前回長くなってしまったのでこちらに続きを載せます。

ぶろぐ3 のコピー

夏休みの宿題などで戦争した人の体験を聞くなどの課題が出たら
神宮寺さん曰く、
私のお話
ぜひ活用して下さい。
煮るなり焼くなりお好きにして下さい☺️
微力ながらも何かお役に立てれば幸いです。
ともおっしゃってました。

貴重な資料をお貸ししてくださって感謝です🙇

ただ劣化も心配なのでどこか資料館みたいなところに預けるのはどうかと尋ねると
すでに神宮寺さん資料館を訪ねる予定はあるそう(さすがの行動力…)



神宮寺さんは昔少年野球チームの監督をやっていましたが、年とともに引退、
90歳を超えた今でも
相談役として小学生野球チームの朝練習などもみてくれています。




野球チームの25周年祝賀会の時に配られた疎開した時の様子と今の子どもたちへの思いをパソコンで文字を打ちながら綴ってくれた手紙の内容も載せます。(画像で自動読み込みツールを使用したので字間がおかしかったり読み取りミスがあったらすみません…💦)


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私の小学校5~6年生頃の思い出


 今からおよそ66年前(昭和20年)、東京に住む私達小学生は当時、次第に激しくなったアメリカ空軍の空襲から“小国民を守れ” との日本軍部と文部省(当時)の政策で“学童疎開” なるものが行なわれた。 


或る者は両親の田舎や親戚へ、或る者は学友や先生と一緒に国が決めたところへ、いずれも両親と別れ東京を離れる事と成った ( 5 年 生 )。 私は親の考えと自分の意志で後者を選んだ。6月のある日、背中にわずかな学用品を背負い極秘のうちに品川駅を出発した。

(極秘とは、意図的な空襲を避ける為で夕方の出発だったと記憶している) 当時の小石川区と浅草区 (現在の文京区、台東区)は宮城県の鳴子温泉へ行くこ とになった為、すし詰め状態の列車にゆられて翌日の昼頃、陸羽東線の鳴子駅に 着いた。駅前は歓迎の地元の人々であふれ ていたが、長旅の私達を驚かせたのは、温泉地特有の強烈な硫黄の臭いだった。

到着後の1 ~ 2日は遠足気分でワイワイ騒いで過ぎたが、3 ~ 4 日過ぎると下級生の女の子が、ついで男の子がシクシク泣き始め先生たちを困らせていたがやがて自分達上級生も家族恋しの気持ちが募りふとんの中で身体をふるわせるようになっていった。


それでも翌朝は “起床 !” の声 で一 斉に飛び起き ふとんの上に正座、東京に向かって大声で
“お父さん、お母さんおはようございます!” と挨拶。つづいて 元気に皆で“疎開は勝つ為、国の為、必ず勝つまでやりぬくぞ!” と歌って一日 のスタートを切っていた。

午前中は旅館 (今も営業中のますや旅館が私達の宿泊所でした。)の大広間で寺子屋風の長机で授業、午後は必ず午睡があり、その後は山の中へ開理に行ったり、時には戦闘機用の燃料の元になるとかで、松根油 (しょうこんゆ)を作る為 松の根っこ掘りに従事した。

夏には川遊び、秋には地元のお祭りや“ あけび” 取り、栗ひろい、冬にはそり 遊びやスキー (といっても今では考えられない貧弱な道具だったが)と楽しい事もいろいろあったが、日々の食事は粗末で地元名産の“わらび が味噌汁、煮物、漬物にそれぞれ入っていたりした。
副食は缶詰類が多く稀にでるカレーライスには大歓声があがっていた。

2ヶ月に一度くらい誰かの親が交代で面 会にくるようになっていたが、物資欠乏の東京でよく揃えてきたものと子供心にもびっくりするほどのご馳走を持ってきてくれていた。
然しながら全般的にはほぼ全員が栄養を失調し、また“虱(シラミ)” の 大量発生などもあって病気に成る者も多く私達のクラスでも一人が現地で亡くなるという悲しい出来事も起きた。

やがて一年余りが過ぎ、あの“8 月15日” を迎えることとなった。(6年生)

宿舎の朝礼で先生から “今日は何か大事な放送があるので疎開児童も地元の子も 全員、鳴子小学校校庭に集合“との指示があり、皆が不安気に集まったものの、正午に始まった放送はほとんど聞き取れず、キレギレに甲高い玉音が耳に入ってきたが意味が分からずにいたところ、前方に並ぶ先生達が泣き崩れ、終戦=敗戦を知る事になり私達は茫然と立ち尽していた。

先生達にうながされて宿舎に帰る山道にはコスモスが咲き乱れ、赤とんぼが空いっぱい、人の世を嗤うように飛ん
でいたのを鮮明に覚えている。


宿舎に戻り先生から敗戦の意味を聞きながらも、“そうだ、これで東京に帰れるんだ、父母達と一緒に暮らせるんだ”の思いが湧き上がり敗戦の何たるかには思い至らなかった。

又、私のほか何人かが空襲で家を失っており帰るに帰れず最後まで鳴子に残る事になり、早く帰京する友を羨ましく見送っていたが、私も漸く
10月上旬に家族が世話になっている品川の叔父の家に合流した。

残り約5ヶ月の小学校生活を近所の学校(品川小)に転校する方法もあったが

ここでも友達と別れづらく、小石川の竹早小学校まで通う事にしたが、品川から小石川迄の通学ではじめて敗戦の意味を知らされた。
ダイヤグラムの無い電車は常に超満員、窓ガラスはすべて割れ、そこからの乗り降りは当たり前、背負っていた学習用品や下駄や運動靴の紛失も度々で、連結器の上が一番空いていて、降りる準備さえ怠らなければ景色も見えて快適だった事を覚えている。


中学校に入った頃、住まいの近所で野球が始まり、大人たちが仲間に入れてくれて、“オーイ、ギッチョ!ユー、ピッチ!!”などと変な英語?で誘ってくれたのを、よく覚えている。そう言えばラジオから平川唯一のカムカム英語がながれていたのも懐かしい思い出です。

終



この度、少年野球チーム祝賀会を開催することが出来、本当に婚しく思いまし た。
また席上小生の喜寿祝いまでご配慮願い、家内ともども感謝いたしましたが

何故、自分はこんなに長く子供達と野球を続けて来たのかなーと考えると単に野球好き、子供好きが昂じた結果ではなく、自身の小学校5~6年の頃、思うように遊べなかった空白を埋め ているように思います。


今、“ 子供達の心が病んでいる” とか“いじめが多い” とか言われますが60年前もいじめはあったし、心が病んでいるような子もいました。


でも、一番違うのは私達の頃は “外で遊ぶ” のが基本で家の中で遊んでいると母からもよく叱られたものです。“ 〇〇君遊びましょ!” と友達の家の前で大声で呼び、出てきた友と別の家に行って又これを繰り返す~、これが毎日でした。
今の子は電話やメールで予約をして ますが、 私達の頃は予約などしていたら、それこそ“いじめ” られていたかもしれません。今の世の中では予約もありかと思いますが、どうが” 外で遊ぶ” “身体を動かず” ことにもっと力をいれて欲しいと思います。


外で遊んでおなかを空かせ、たくさん食べる、お子さん達の自然な成長を促す 為に是非とも外で遊ぶ習慣を取り戻して欲しいものです。


最後に食べ物について、飽食の時代といわれて久しいのですが、どうも気になるのは、子供達の顔つき(特に頬骨)がほっそりしてきている事です。私などが言うのもいかがなものかとも思いますが、最近は口当たりの良いもの、軟らかいものの食べすぎではと考えます。


育ち盛りの子供達にもっと “かたいもの”を食べさせて咀嚼力をつける事が必ず

内臓の強化にも繋がるものと思っています。


“健全なる精神は健全なる身体に宿る”とか。どうか大事な、お子様たちの本当の幸せの為に強い身体づくりに“小魚”や“貝類”などのほか“孫は優しい”と言われる “豆、胡麻、わかめ類、野菜、椎茸、芋類”などや、“野球食”(海老久美子著)をご覧になるとよろしいと思います。(野球食についてはインターネット検索をお勧めします。)



思いつくままに書き綴ってしまいました。どうか昭和ひとケタ世代の妄言とお許し下さい。

追記“鳴子疎開”の時につけていた日記の一部や父母や姉から来た手紙など

を保存しています。


今も終戦記念日が近づくとNHK
をはじめ民放などから資料貸与の依頼が来る事もあります。ご希望があれば、いつでもご覧にいれます。


以上神宮寺さんの言葉でした。□■*:;;;:*□■*:;;;:*■



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※今回は文字が多いのでいつもに増して誤字などあるかもしれません💦
 誤字の多い私をいつも生あたたかい目で見守っていただきありがとうございます🙇
※前回と今回の記事にいただいたコメントは印刷して神宮寺さんにお渡ししようと思っていますのでよかったらコメントぜひ!
 




▼超人神宮寺さんを知らない人へ







▼まだ神宮寺という名は出てきませんが、実はこれも神宮寺さんの話でした。




▼次男も愛飲しているサジー😆
体のだるさが気になるなら一度お試しください







重版出来ありがとうございます!
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▼息子が反抗期の時の悩める母のエッセイです。






 


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