ようこそ(*^▽^*)
社会人6年目&大学院1年生の息子がいるアラフィフ〜アラカンの狭間にいる母が日常を自由気ままに描いているブログです。
初めての方、こちらに兄弟のプロフィールがありますので、よかったら覗いてみてください。
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はじめに
☆゚+.☆゚+.☆゚+.☆゚+.
▲前回長くなってしまったのでこちらに続きを載せます。

神宮寺さん曰く、
私のお話ぜひ活用して下さい。
微力ながらも何かお役に立てれば幸いです。
ともおっしゃってました。
貴重な資料をお貸ししてくださって感謝です🙇
ただ劣化も心配なのでどこか資料館みたいなところに預けるのはどうかと尋ねると
すでに神宮寺さん資料館を訪ねる予定はあるそう(さすがの行動力…)
神宮寺さんは昔少年野球チームの監督をやっていましたが、年とともに引退、
90歳を超えた今でも相談役として小学生野球チームの朝練習などもみてくれています。
野球チームの25周年祝賀会の時に配られた疎開した時の様子と今の子どもたちへの思いをパソコンで文字を打ちながら綴ってくれた手紙の内容も載せます。(画像で自動読み込みツールを使用したので字間がおかしかったり読み取りミスがあったらすみません…💦)
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私の小学校5~6年生頃の思い出
今からおよそ66年前(昭和20年)、東京に住む私達小学生は当時、次第に激しくなったアメリカ空軍の空襲から“小国民を守れ” との日本軍部と文部省(当時)の政策で“学童疎開” なるものが行なわれた。
或る者は両親の田舎や親戚へ、或る者は学友や先生と一緒に国が決めたところへ、いずれも両親と別れ東京を離れる事と成った ( 5 年 生 )。 私は親の考えと自分の意志で後者を選んだ。6月のある日、背中にわずかな学用品を背負い極秘のうちに品川駅を出発した。
(極秘とは、意図的な空襲を避ける為で夕方の出発だったと記憶している) 当時の小石川区と浅草区 (現在の文京区、台東区)は宮城県の鳴子温泉へ行くこ とになった為、すし詰め状態の列車にゆられて翌日の昼頃、陸羽東線の鳴子駅に 着いた。駅前は歓迎の地元の人々であふれ ていたが、長旅の私達を驚かせたのは、温泉地特有の強烈な硫黄の臭いだった。
到着後の1 ~ 2日は遠足気分でワイワイ騒いで過ぎたが、3 ~ 4 日過ぎると下級生の女の子が、ついで男の子がシクシク泣き始め先生たちを困らせていたがやがて自分達上級生も家族恋しの気持ちが募りふとんの中で身体をふるわせるようになっていった。
それでも翌朝は “起床 !” の声 で一 斉に飛び起き ふとんの上に正座、東京に向かって大声で
“お父さん、お母さんおはようございます!” と挨拶。つづいて 元気に皆で“疎開は勝つ為、国の為、必ず勝つまでやりぬくぞ!” と歌って一日 のスタートを切っていた。
午前中は旅館 (今も営業中のますや旅館が私達の宿泊所でした。)の大広間で寺子屋風の長机で授業、午後は必ず午睡があり、その後は山の中へ開理に行ったり、時には戦闘機用の燃料の元になるとかで、松根油 (しょうこんゆ)を作る為 松の根っこ掘りに従事した。
夏には川遊び、秋には地元のお祭りや“ あけび” 取り、栗ひろい、冬にはそり 遊びやスキー (といっても今では考えられない貧弱な道具だったが)と楽しい事もいろいろあったが、日々の食事は粗末で地元名産の“わらび が味噌汁、煮物、漬物にそれぞれ入っていたりした。
副食は缶詰類が多く稀にでるカレーライスには大歓声があがっていた。
2ヶ月に一度くらい誰かの親が交代で面 会にくるようになっていたが、物資欠乏の東京でよく揃えてきたものと子供心にもびっくりするほどのご馳走を持ってきてくれていた。
然しながら全般的にはほぼ全員が栄養を失調し、また“虱(シラミ)” の 大量発生などもあって病気に成る者も多く私達のクラスでも一人が現地で亡くなるという悲しい出来事も起きた。
やがて一年余りが過ぎ、あの“8 月15日” を迎えることとなった。(6年生)
宿舎の朝礼で先生から “今日は何か大事な放送があるので疎開児童も地元の子も 全員、鳴子小学校校庭に集合“との指示があり、皆が不安気に集まったものの、正午に始まった放送はほとんど聞き取れず、キレギレに甲高い玉音が耳に入ってきたが意味が分からずにいたところ、前方に並ぶ先生達が泣き崩れ、終戦=敗戦を知る事になり私達は茫然と立ち尽していた。
先生達にうながされて宿舎に帰る山道にはコスモスが咲き乱れ、赤とんぼが空いっぱい、人の世を嗤うように飛んでいたのを鮮明に覚えている。
宿舎に戻り先生から敗戦の意味を聞きながらも、“そうだ、これで東京に帰れるんだ、父母達と一緒に暮らせるんだ”の思いが湧き上がり敗戦の何たるかには思い至らなかった。
又、私のほか何人かが空襲で家を失っており帰るに帰れず最後まで鳴子に残る事になり、早く帰京する友を羨ましく見送っていたが、私も漸く10月上旬に家族が世話になっている品川の叔父の家に合流した。
残り約5ヶ月の小学校生活を近所の学校(品川小)に転校する方法もあったが
ここでも友達と別れづらく、小石川の竹早小学校まで通う事にしたが、品川から小石川迄の通学ではじめて敗戦の意味を知らされた。
ダイヤグラムの無い電車は常に超満員、窓ガラスはすべて割れ、そこからの乗り降りは当たり前、背負っていた学習用品や下駄や運動靴の紛失も度々で、連結器の上が一番空いていて、降りる準備さえ怠らなければ景色も見えて快適だった事を覚えている。
中学校に入った頃、住まいの近所で野球が始まり、大人たちが仲間に入れてくれて、“オーイ、ギッチョ!ユー、ピッチ!!”などと変な英語?で誘ってくれたのを、よく覚えている。そう言えばラジオから平川唯一のカムカム英語がながれていたのも懐かしい思い出です。
終
この度、少年野球チーム祝賀会を開催することが出来、本当に婚しく思いまし た。
また席上小生の喜寿祝いまでご配慮願い、家内ともども感謝いたしましたが
何故、自分はこんなに長く子供達と野球を続けて来たのかなーと考えると単に野球好き、子供好きが昂じた結果ではなく、自身の小学校5~6年の頃、思うように遊べなかった空白を埋め ているように思います。
今、“ 子供達の心が病んでいる” とか“いじめが多い” とか言われますが60年前もいじめはあったし、心が病んでいるような子もいました。
でも、一番違うのは私達の頃は “外で遊ぶ” のが基本で家の中で遊んでいると母からもよく叱られたものです。“ 〇〇君遊びましょ!” と友達の家の前で大声で呼び、出てきた友と別の家に行って又これを繰り返す~、これが毎日でした。
今の子は電話やメールで予約をして ますが、 私達の頃は予約などしていたら、それこそ“いじめ” られていたかもしれません。今の世の中では予約もありかと思いますが、どうが” 外で遊ぶ” “身体を動かず” ことにもっと力をいれて欲しいと思います。
外で遊んでおなかを空かせ、たくさん食べる、お子さん達の自然な成長を促す 為に是非とも外で遊ぶ習慣を取り戻して欲しいものです。
最後に食べ物について、飽食の時代といわれて久しいのですが、どうも気になるのは、子供達の顔つき(特に頬骨)がほっそりしてきている事です。私などが言うのもいかがなものかとも思いますが、最近は口当たりの良いもの、軟らかいものの食べすぎではと考えます。
育ち盛りの子供達にもっと “かたいもの”を食べさせて咀嚼力をつける事が必ず
内臓の強化にも繋がるものと思っています。
“健全なる精神は健全なる身体に宿る”とか。どうか大事な、お子様たちの本当の幸せの為に強い身体づくりに“小魚”や“貝類”などのほか“孫は優しい”と言われる “豆、胡麻、わかめ類、野菜、椎茸、芋類”などや、“野球食”(海老久美子著)をご覧になるとよろしいと思います。(野球食についてはインターネット検索をお勧めします。)
思いつくままに書き綴ってしまいました。どうか昭和ひとケタ世代の妄言とお許し下さい。
追記“鳴子疎開”の時につけていた日記の一部や父母や姉から来た手紙など
を保存しています。
今も終戦記念日が近づくとNHKをはじめ民放などから資料貸与の依頼が来る事もあります。ご希望があれば、いつでもご覧にいれます。
以上神宮寺さんの言葉でした。□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

※今回は文字が多いのでいつもに増して誤字などあるかもしれません💦
誤字の多い私をいつも生あたたかい目で見守っていただきありがとうございます🙇
※前回と今回の記事にいただいたコメントは印刷して神宮寺さんにお渡ししようと思っていますのでよかったらコメントぜひ!
▼超人神宮寺さんを知らない人へ
▼まだ神宮寺という名は出てきませんが、実はこれも神宮寺さんの話でした。
▼次男も愛飲しているサジー😆
体のだるさが気になるなら一度お試しください
重版出来ありがとうございます!
▼
▼息子が反抗期の時の悩める母のエッセイです。
お金のこと漫画にして解説してます▼
Xもやってます






コメント
コメント一覧 (34)
knife8
が
しました
今回はまたものすごく貴重な資料の数々を紹介してくださって⋯本当にありがとうございます
神宮寺さんが力いっぱい野球に熱中できる、平和な日々が続きますように!
knife8
が
しました
戦時下の子供達の思いと一緒にしてはおこがましいことですが
今、子供達が野球をやりたい中、制限が多くやりたい気持ちをいかに達成させてあげれるか
熱中症、声だし、ボールの使用方法
大人が錯誤したこと、子供達が楽しんで野球をしてくれる事を祈るとともに、後世へもそれが繋がってくれること切に祈ります
knife8
が
しました
神宮寺さんがおっしゃる通り鳴子は硫黄温泉です。都会の方が1年間も山間部の田舎に家族と離れ疎開していたとはお辛かったことと思います。少しでも楽しい思い出があったのなら良いのですが…
綺麗に保管されていた貴重な資料と体験談をお聞かせ頂きありがとうございます。
knife8
が
しました
まだまだ当時のお話を伺いたくなりました。
まるさん、紹介してくださり、ありがとうございました。
knife8
が
しました
素直に心に入ってゆきます
その時おもいっきり楽しめなかった野球とか
遊びを今、味わえてるんですね
私は両親は居たんですがどちらも入院してたので
父方の祖父母が私を育ててくれました
そうでなかったら児童養護施設行きだったと思います
ちょっと他の子達と違う感覚や買ってもらいたい物も買ってくれずでガッカリしたこと多々あります💦
でもこうして自分がおばさんになり子を複数育ててみたら保護者の立場を本当に大変なことを痛感しました
ところで銀座の豊岩稲荷神社さんにご挨拶させていただきました(すずらん通りにあります)
こちらさんは(月)(火)(金)が基本、社務所の人が対応してくれます
10時30分〜15時30分でです
この時間内でおじさん昼休憩をとったりしてます
社務所はおじさんひとりでなので行ってみても不在…とかあるんです
御朱印をお目当ての人はすごく気をつけたほうが良いです
私は御朱印いただかない者ですが😶
おみくじは無いお稲荷さんです
長々とすみません💦
knife8
が
しました
少年野球ができるのも平和だからこそですね!
直接的ではなくこうして戦争は絶対ダメと
言える方がいらして嬉しいです。
また子供たちがしっかり体を動かしてしっかり食事をとる!大切な事ですよね。歯応えのある食べ物も必要だと私も日頃から思っています。
まるさん、神宮寺さんにどうぞいつまでもお元気で少年たちと共に野球をなさいますようお伝えくださいませ!
knife8
が
しました
大事な昔のお話、もっともっと広がり受け継がれてほしいです。
まだまだ長生きしてください。
knife8
が
しました
私の子供時代も、ピンポーン『◯◯ちゃん、あそびましょ』って友達誘って外で遊びまくってました。
子供が多い時代だったので、集合団地だったのもあり遊ぶ友達には困らず、真冬でも天気悪くても団地の階段で遊んだり…。
うちの次男は最近では珍しく特に外で遊びまくる子でゲームに興味ない子でした。
現在は携帯手放さないゲーム大好き大学生ですが…。
神宮寺さんのお話で、昔の事思い出しちゃいました。
戦争を知る貴重な年代の神宮寺さん、長生きしてたくさん子供達に伝えて欲しいですね。
knife8
が
しました
田舎ゆえ道に隠れる場所がほぼ無く、戦闘機が上空を飛ぶたび用水路に隠れたり、それすらなかったら頭に鞄を乗せて地べたに這いつくばって身を守ったそうです。
三菱工場が近くの町にあったので、広島で2番目に大きい都市が空襲で焼け野原になり、次はここの工場が空襲で燃やされるだろう、どこかに逃げようかと話していた矢先、原爆投下。
爆心地からはかなり遠かったので被曝はしませんでしたが、ピカを目撃、黒い雲がいつまでも残っていたと話していました。
曽祖父は当時ではかなり背が高い人で、食料運搬中に敵兵に見つかって撃たれ、広島市内の病院で亡くなりました。
曽祖母は戦後、子供2人を食べさせる為闇市でお米を買い、自転車のカゴの中に入れ、上に荷物を置いて隠していたそうですが、重みで自転車のタイヤが潰れ、それで見つかり警察に止められたりもあったそうです。
また、祖母の親戚の叔父さんは戦艦に乗っていましたが沈没、死を覚悟した瞬間に足に何かがあたり、それを思い切り蹴ったことにより無事浮上。何かに生かされたとずっと言っていたそうです。
私も広島の産まれなので、平和学習でこういう話を聞く機会が沢山ありましたが、戦争経験者の方が高齢になり、今の子供達は聞く機会がなくなりました。
今回の神宮寺さんのお話を読み、私もこれらの話を纏めようと思いました。
幸い祖母は今年で90歳ですが、まだまだ元気。色々話を聞こうと思います。
貴重なお話ときっかけをありがとうございました。
knife8
が
しました
集団生活でしらみが大変だったこと、疎開が始まったころは地元の人が大勢で駅まで出迎えに行ったが時間が経つにつれそれも少なくなっていったこと、食料不足の中、子供達には白飯を食べてもらおうと地元の大人たちも奔走したことなど…地元目線で色々なことが書かれていました。
そして確かに硫黄の匂い、すごかったです。独特の匂いですね〜
knife8
が
しました
ますや旅館も小学校も伺っておりましたが、恥ずかしながら、疎開地であったこと、今回の記事で初めて知りました。斜度のきつい坂道を、神宮寺さんも行き来されていたのかと、思いを馳せておりました。この記事のお陰様で、何かがつながったような気がしてなりません。また近々、訪れたいと思います。ありがとうございました。
knife8
が
しました
戦争体験者が高齢になり、こういったおはなしを聞ける機会か少なくなったのでありがたいなと思いました
私の両親は早くに亡くなってますが生きてれば80代後半
子どもの頃母親から玉音放送のことを聞いたことがあります
母親は当時小学校低学年だったらしく放送の意味がよくわからなかったと言ってました
生きてればもう少し戦争の話聞けたかもしれませんね
knife8
が
しました
神宮寺さん、貴重なお話、資料も感動しました。
子供の外遊びも大事ですね。
私も、もう少し身体を動かし日々平和を楽しみ…過ごしたいと、改めて考えました。
重ねてになりますが、まるさんも素敵なお話ありがとうございます😊
knife8
が
しました
戦争の体験って身近な人からでもなかなかじっくり聞く機会がないもの。
私の祖父も戦争でガダルカナル島に行った話をよく聞かせてくれました。うちの親は、田舎だから疎開はしなかったけれど、親戚などが身を寄せたりしていたそうです。
神宮寺さんが現代の子供達に思うこと…だいたい一緒です。噛むこと、外で遊ぶこと…みんながそれを実現しだしたら、もっといい世の中になるんじゃないかなぁ。
knife8
が
しました
もし神宮司さんのお許しがあればこれらのお話をまるさんの画で表現したものも見てみたいと思いました。
他にも神宮司さんの人生やライフスタイルにも興味があります。
もし機会があればお願いします。
コメント送るの始めてなので変なところがあったらすいません🙏
knife8
が
しました
knife8
が
しました
この時代に、こんなに詳しい体験記を語って下さる方がお元気でいらっしゃる事が、どれ程凄い事か…。
どれもこれも、小学生の体験だと思うとより一層、胸に迫る内容で……
松根油というのも、初めて知りました。
松の木の根っこの油ということですよね。それが飛行機の燃料になるとは驚きです。
このような単語を見るにつけ、本当に、まったく想像もつかないご苦労をされたのだと、朧げながら感じられました。
あらためて、今の平和な日本がどれ程のことかと、気が引き締まる思いで拝読いたしました。
ところで一点だけ、不勉強で申し訳ありませんが、わからない箇所がありました。
「その後は山の中へ開理に行ったり(略)」とありますが、開理という単語の意味を調べても見つけられず…。どのような意味なのでしょう。
文面的に、もしや開墾を示す昔の言葉だったりしますでしょうか。
神宮寺さんがいつまでもお元気で野球を続けられるよう、お祈りいたします。
knife8
が
しました
今日の夕方のニュースで、めぐみんさんがお知らせくださったパネル展が取り上げられていました。これこれ!と一人で大興奮でした。6900人(ぱっと見でさだかではないです。すみません。)の受け入れとの事、驚きました。
神宮寺さんがお元気でいらっしゃることが、とても嬉しい限りです。
knife8
が
しました
亡き祖母や母は福島県出身でしたので、逆に疎開先として沢山の子供達が疎開に来ていたと聞いてます。
ちなみに、亡き祖父は福島に珍しく落とされた爆弾の爆風で頭を打ち耳が聞こえなくなったそう。
母方の兄弟姉妹は全員難聴なのですが、遺伝では無いことをいつも母も言っていた。(私も息子も難聴なので遺伝性なのは明らかなんですが、祖父からの遺伝では無い)
祖母は戦時中の話や戦後の話も良くしてくれました。
特に福島から東京の闇市に買い出しに行った話をよく聞きました。
その闇市?汽車の中でくっついて離れない子がいて連れて帰ってきたのが叔父Kだと。
母や他の兄弟姉妹はあまり叔父のことをよく思っていませんでしたが、祖母は叔父のことをほんまの子のように育てて擁護していました。
福島から横浜に移った後も家政婦をして晩年まで働いてました。
神宮寺さんのお話を読むと祖母を思い出します。
そして、お盆時期になると『おじいちゃんが帰ってくるんだよ。』と言ってました。
私は祖父の亡き後に生まれてますので直接会ったことはありませんが守られている感じはあります。
knife8
が
しました
私の祖母は戦争で夫を亡くし、空襲を生き延び、96歳まで生きました。
けれど、直接話を聞けることがどれほど貴重なことか、当時の私は分からず、聞くこともせず。
(祖母に辛い体験を話す気があったかは分かりませんが。)
8/12は祖母の誕生日で、今年は13回忌。
祖母がどんな時代を生き、何を楽しみに過ごしたのか、ちゃんと聞けたら良かったな。
神宮寺さんの記事を読んで、そんなことを思いました。
まるさん、神宮寺さん、ありがとうございました。
これからも応援しています。
knife8
が
しました
以前、疎開経験がある女性も同じ事をおっしゃってました。最初は遠足気分だったけれど、数日経つと親に会えないのだと現実的になり、布団の中でシクシク泣いていたと。親から来る手紙が楽しみで心の支えだった事。離れた親子の気持ちを想像するだけで泣けてしまう
うちの母は80代後半、今も終戦記念日には毎年すいとんを作ります。
小さい時に何で今日はこれ食べるの?と不満顔で言ったら、昔はその辺の雑草も食べられる物は何でも食べたんだよ、今何でも買えて食べられる世の中になった事に感謝しなきゃねと言っていました。
昔日本で起こった事を教えてくれる方のお話、とても貴重です。神宮寺さんありがとうございました。
knife8
が
しました
knife8
が
しました
父は疎開せず、水戸空襲で家が全焼し、バラック生活を余儀なくされました。
少年時代は楽しい思い出などなく、常に我慢、空腹との闘い、命を惜しまない教育を受けました。(登校時、「行ってきます」というと先生に叱られる。『命を惜しまず帰ることを考えるな。「行きます」と言え!』など)
終戦後も物資不足で、成長期の父たちは常に空腹と戦いながら、校舎がない青空教室で、来る日も来る日も戦前に倣った教科書を墨で塗りつぶす日々だったそうです。
上皇天皇も疎開されていたそうですね(父の友人が、疎開先でご一緒になったそうです)
貴重な神宮司さんの記憶、大切に後世に残していきたいですね。
knife8
が
しました
祖父は被爆しましたが、78歳まで生きることができました。
辛い体験だったようであまり話を聞く機会はなかったですが、ときおり「戦争はいけん。」と絞り出すように言っていたことを思い出します。
様々な経験を教えてくださり、大変ありがたいです。
knife8
が
しました
もっといろんなお話聞きたいです。
子どもの頃は家に帰るとすぐ遊びに行ったものです。
今の子ども達もしっかり外で遊んで日光を浴びてしっかりご飯を食べて生活してほしいですね。
またお話聞かせてくださいね。
楽しみにしてます。
knife8
が
しました
少年野球への多大なる貢献を日頃から素晴らしいお人柄だと感服しておりましたが、奪われた野球少年の時間は、戦争に惨さの一つですね。野球少年の母としては辛い気持ちでいっぱいになりました。
平和で子供達が公園で野球して遊ぶということが、いかに尊いことなのか。これからも子供達が食べて野球を楽しめる、そんな時代が続くことを、大人達が守っていかなければいけませんね。
神宮寺さんが90代で朝練習に参加してることも凄いです!
どうかお身体お大事に、いつまでも少年野球の子供達の側でいてあげてください。少年野球というのは地域の力によって支えられていると実感しております。
knife8
が
しました
神宮寺さんのお話、とても興味深く拝見しました。私は小学校の教員をしています。いま教えている子どもたちと同じくらいの子どもがたくさんの寂しさや苦難をのりこえようとしていた姿を想像すると胸がぎゅっとなんとも言えない気持ちになります。戦争を体験された方の生の声はとても貴重だと思いますし、特に子どもたちにとって同じ年くらいな子どもがこんな思いをしていたということは、教科書ではなかなか教えられないことですので、今後、授業の際には神宮寺さんの体験について触れさせていただきたいと思います。そして子ども一緒に平和や命の尊さについて考えていきたいと思っています。
貴重なお話をありがとうございました。
knife8
が
しました
ありがとうございます。
神宮寺さんご自身のお人柄や行動力も素晴らしいと思います。
また機会がありましたら、神宮寺さんのエピソードを描いていただけると嬉しいです。
knife8
が
しました
神宮寺さんのおっしゃる、顎がほっそりしている子というのが本当に増えています!
私は歯科衛生士なのですが、やはり噛むことが少なく丸呑みしてるような子もいたり、あとはゲームやタブレットで下を向くことが多く、下顎がどんどん奥に引っ込んでいき、結果、歯が並びきらず歯並びが悪い子が増えています。(歯並びが悪い子供が多いのは先進国に多いのです)
息子には私の実験台になってもらい、私、夫共に歯列矯正治療経験者でしたが、根菜をよく食べさせたり、お菓子はグミにするなどして、今のところ歯並びは良い方です。
私の母と同居していて、母の作る昭和30年代のような食事もいいのかもしれません笑
戦時中のことはもちろんですが、現代の子の将来にまで思いを馳せてくださる神宮寺さん、素晴らしいです!これからもお元気で!!
knife8
が
しました
親元を離れて生活している子供達のなんて健気なこと……。
神宮寺さん、まるさん、貴重なお話と資料をありがとうございました。
knife8
が
しました
knife8
が
しました
今年は終戦80年という事もあるせいか戦争に関係する番組が沢山放送されていますね。
私の父は長崎出身で現在90歳で元気に過ごしておりますが神宮寺さんのように当時のハガキなどを保管している感じではなく戦争の話しといえばアメリカ人にチョコレートをもらった話しくらいしか聞いた事がなかったのですがこちらからちゃんと聞けば教えてくれるのかな。。と色々考えさせられました。大切な事に気付かせて頂き感謝です。
それにしても神宮寺さんとても達筆でいらっしゃいますね✨
knife8
が
しました
神宮寺さんの実体験、当時の手紙や日記からその場面が鮮明に蘇るようです。
世界は弱肉強食です。
平和ボケした日本人など、赤子の手を捻るように簡単に騙されるでしょう。
戦争に至った経緯、天皇陛下の御心。
二度と惨劇を繰り返さない為には、日本人が日本を守る心を取り戻さないといけない時代になりました。
knife8
が
しました